Fantastic Plastic Machine

クラブ系ハウスミュージックが大好きでよく聴くんですが、その中でも Fantastic Plastic Machine が最も好きなアーティストかもしれません。昨日紹介したDAISHI DANCE も好きですし、他にもFreeTEMPOなんかもしびれる程に大好きなのですが、より多くの仕掛けに満ちている Fantastic Plastic Machine の音楽の方に軍配を上げたい気持ちでいます。といっても、彼(Fantastic Plastic Machine は田中知之のソロプロジェクト名です)の演奏をクラブなどで生で聴いたことはなくて、ただ1枚のスタジオアルバムを聴いたことがあるだけに過ぎません。しかし、玉子焼きを食べただけでその店の料理の腕前を全て見通してしまう美食家のように、僕も1枚のアルバムを聴いてその音楽家がどれだけ高い能力があるかを知ることがだんだんとできるようになってきたので、彼がどれだけ素晴らしいかはすぐに分かりました。
僕が聴いているアルバムは、3作目の『beautiful』なのですが、このアルバムはうまく均整が取れていて、円熟した才能を感じることができる名盤です。
ジャケット写真はちょっと気持ち悪くて、「ホントに beautiful かよ?」という感じなのですが、このアルバムの1曲目が「I am Beautiful」というセリフだけを発するというトラックなので、ちょっとビックリさせられます。
特にオススメなのは「Beautiful Days」という曲で、女性ボーカルを迎えてとてもテンポの良い気持ちが晴れるような音楽です。休日の午前中に部屋の窓を開けて風を通して、観葉植物に水をやりながら聴きたい曲、という感じです。

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DAISHI DANCE

クラブという場所はどうしても好きになれないのですが、ごくたまに新木場にある「ageHa」というクラブに足を運ぶことがあります。このクラブは国内最大規模の本当にだだっ広い箱で、普通のクラブの何倍もの客を動員することができ、チャラチャラした男たちのナンパの巣窟と化している感があります。では、僕もそんな男どもの仲間入りをしてナンパをするためにそこに通っているのか、といえばそうではなくて、ちゃんと音楽を楽しむために新木場くんだりまで行くわけです。そして、そのお目当てとはDAISHI DANCE です。彼のハウス音楽が大好きでたまらないんです!!
心に沁みるんですよね、DAISHI DANCE の演奏って。彼の演奏テクニックはハンパなくレベルが高く、見ていてそのフォームだったりがとても綺麗で見ほれてしまうくらいなんですが、もちろん見た目だけではなくて奏でられる音楽も素晴らしく良い。心の奥底にある記憶を揺さぶるようなノスタルジックな音楽を手がけるんですが、「なんでこの人は僕のいまの気持ちを知っていて、それに最も合うような音楽を演奏してくれるんだろう?」と疑問を抱いてしまうほど、しっくりと僕の心に働きかけてくれます。
そのアレンジングテクニックを活かして、ジブリ音楽のリミックスも手がけています。オリジナルの妙味を損ねることなく、彼の色にうまく染めていて、ジブリファンもそうでない人も十分に楽しめる作品に仕上がっています。
クラブの臨場感こそないですが、ぜひCDを聴いてみてください!

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大修館書店『明鏡国語辞典』

たしか多湖輝の『頭の体操シリーズ』だったと思いますが、「子どもに靴を買うのに、高い靴よりも安い靴の方が良い場合がある」ということを紹介していました。子どもはすぐに成長しますから、頻繁に靴を買い替えなくてはいけない。高い靴を買ってしまっては、買い替えを渋ったり、長く使わせようとサイズの合わない大きめの靴を買ってしまったり、いろいろと弊害が出る可能性がある、というのが理由でした。なるほど確かにそういうことも考えられるな、と思いました。人間はやはり合理的な問題だけを取り上げて生きているわけではなく、とても不条理で実存的に生きているものですよね。
数年前に広辞苑が改訂されたといって、みんながこぞって買い求めたときに同じことを思いました。言葉というのはすぐに意味が正反対になったり、使われていたのが古めかしくなったりします。特に近年は変化の激しさが顕著ですよね。だから、10年に1度ほどしか改訂の機会のない辞典を買いに走るというのは、何が自分に必要なのか分かっていない人たちが権威的であるという理由だけで行っている無思慮な行為なのだと思います。もちろん、中にはどうしても広辞苑でなければいけないという理由で購入している人もいるんでしょうが。。

さて、2010年11月に大修館書店から『明鏡国語辞典』の改訂版が発売になりました。この辞書は多くの「新語」を取り入れて、時代の流れに対応することができるように作られています。たとえば「アプリ」や「ガチ」や「イラッと」など、お固い広辞苑には載っていないような「ナウい」言葉が収録されています(ちなみに、「ナウい」は2008年の改訂版でようやく広辞苑に収録されたそうです。どれだけ時代錯誤なんだ!!)。
高いお金を払って広辞苑を長年使うよりも、新陳代謝の激しい言葉の世界に即座に対応するために、安い辞書を数年単位で買い替える方がよっぽど現実に即していると思います(まぁ、「ガチ」や「イラッと」なんて辞書を引かなくても使えなきゃおかしいですけど)。

ちなみに、この辞書のキャンペーンとして、関東エリアの有隣堂20店舗に、お笑い芸人バカリズムが手がけた販促用POPが張り出されるそうです。とてもうまい広告ですよね、バカリズムの芸風にすごくマッチングしていて楽しみです。

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東川篤哉『謎解きはディナーのあとで』

2011年度の本屋大賞が決定しました!大賞受賞作は東川篤哉の『謎解きはディナーのあとで』です。2010年9月の発売以来、かなり話題を集めていて、新刊にほとんど手を出さない僕ですら読んだくらい今とても注目を浴びているホットな作品です。
僕はそもそも好んでミステリー作品を読むタイプではないのですが、友人から聞いたこの作品の設定が面白そうだったので思わず購入してしまいました。その設定というのは、いわゆる「安楽椅子探偵」と呼ばれるスタイルで、事件の概要を聞いただけで解決に導いてしまう探偵のことですね。その安楽椅子探偵というのが、大金持ちの令嬢に仕えている執事であり、さらにその執事が毒舌を吐きまくりながら令嬢(警視庁の新人刑事で、彼女が事件を伝えるんです)と掛け合いつつ事件を鮮やかに解いていくんです。その掛け合いがまた面白い上に巧妙で、上質のミステリーを読んだときの「うは!やられた!つーかやられてたのか!!」という気持ちの良い驚嘆を味わうことになります。

作者の東川篤哉は、このスマートにして毒舌家の執事と同じような存在なのかとイメージしていましたが、今回の本屋大賞受賞時の写真を見て「気の弱そうなおっさん」だということが判明しました。舞城王太郎のように覆面であったら何だか神秘的で良かったのに。。

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『二代将軍・徳川秀忠—忍耐する“凡人”の成功哲学』

駅前での待ち合わせでちょっとした時間が空いてしまったとき、ケータイのアプリで時間を過ごすのが21世紀を生きる若者の正しい姿なのかもしれませんが、アナログな僕はやはり本屋を覗いてしまいます。取り立ててどんな本がほしいだとか、この雑誌をチェックしたいだとかはないのですが、たくさんの本が置いてある空間というのがたまらなく好きなんですね。
本屋に入ったからといって実際に本やら雑誌やらを購入する機会というのは非常に稀です。古本屋での衝動買いはよくしてしまうのですが、新品の本ってやっぱり高いですから買う前に「ちょっと待てよ」とブレーキがかかってしまうんです。
ですが、今回紹介する『二代将軍・徳川秀忠—忍耐する“凡人”の成功哲学』を書店の店頭で見かけたときは、これは買いだなと即決定してしまいました。特に歴史に興味があるわけでもない僕がこの本に惹かれた理由は、「なんで敢えて徳川秀忠だよ?」という疑問が湧いてしまったことだと思うのですが、本当に不可解ですよね。初代将軍の家康の功績は言うまでもない。そして三代目の家光も歴史上かなりの大仕事をこなしています。その間の秀忠はその二人に挟まれて陰を潜めています。それを敢えて取り上げて一冊の新書にまとめている。読まないわけにはいかないでしょう!そして、タイトルも良いんですよね。「忍耐」「凡人」「成功」ですから!
仮にも将軍職についている秀忠がどんな「忍耐」を強いられていたのか。そして、はっきりと秀忠を「凡人」と規定してしまったところから論じる姿勢。さらに、目立った業績を残していないのに「成功」したとはどういうことか。様々な憶測が去来します。
本書はタイトルで惹かれた興味を一切減じることなく僕を楽しませてくれました。秀忠の政治哲学が多く紹介されていて、歴史に興味がない読者をも満足させてくれる内容に仕上がっています。ぜひ、本屋で見かけたら手にとってみてください!

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劇団ひとり『陰日向に咲く』

最近では芸人が小説を書くということは珍しいことではなくなりましたが、その流れを作ったパイオニア的な存在として劇団ひとりがいます。彼が『陰日向に咲く』という快作を発表し、それが大きな話題を集めたところから芸人文学の門戸が華やかに開かれることになりました。他の芸人文学は「芸人が書いたにしては」というクレジット抜きには読むに堪えないものばかりですが、劇団ひとりの『陰日向に咲く』はそういった「下駄履かせ」を度外視して完成度が高いです!もちろん、芸人としてある程度の知名度があることが手伝わなかったら100万部も売れることはなかったでしょうが、純粋に小説の中身を読んでいけばそれが他の新人作家の作品よりも優れて面白いことに気付くはずです。

この作品は、社会に歯車の中でうまくその役割を演じられない落ちこぼれ達6人の人物たちそれぞれの視点で6つのストーリーが語られます。とはいってもそれぞれのストーリーの間にはいくつかの連関があり、いわゆる「連作小説」という形式があると言っていいでしょう。それぞれの繋がりも面白いですが、最後の章のちょっとした仕掛けに多くの読者は膝を叩いたに違いありません。その「ちょっとした仕掛け」というのも、古今東西の小説で使い古されてきたやり方で、プロの作家だったらとても手を出せないような代物なのですが、芸人作家だからこそ厚顔無恥にも使えるテクニックですよね。でも、小説を読んだことがなく「劇団ひとりが書いていて話題になっているからちょっと読んでみるか」という「にわか読者」には新鮮で物凄く巧みな技術に感じられたかもしれませんね。
難しい文学はちょっと、という人には最適の「1冊目に読む本」かもしれません。

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東野圭吾『手紙』

小説の役割とは、道徳を論じることではないと思います。ですから、東野圭吾の代表作の一つである『手紙』に対して、「感動的な一方で殺人を正当化するような記述がある!」と批判することは理路として正しくないんじゃないかと思います。
しかし、僕はこの手の批判をしてしまう人の気持ちがわからないでもないんです。なんというか、何かにつけてこの作品を否定してみたい気分になったんじゃないかと思うんですよね。殺人は悪いことなんだ!という主張を声高らかに叫びたかったわけではなくて、理由はなんでもいいから、みんなが「泣ける、泣けるぅ〜」と言って話題にしているこの作品の粗を探して非難したかったのではないか。
こういうからには僕もこの作品に対して良い評価を抱いていないのはお分かりいただけると思いますが、まさにその通りで、良い評価を抱いていないというよりも、はっきりとこの作品が嫌いであると言い切れます。なぜか? 安直だからです。構図がはっきりしすぎている。殺人犯の兄を持つ男とそれを受け入れがたい社会の面々、一方で親身になって世話してくれる人がいれば、時に優しく時に厳しい人もいる。そういう人たちが、判を押したみたいにきれいに与えられた役割を演じている感じが滲み出ていて、読んでいて不快なんです。人間ってそんなに単純な生き物じゃないぞ、と思うんですよね。
東野圭吾はミステリー小説においては天才的なテクニックを持っていると思いますが、『手紙』のようなヒューマニズムタッチの作品は駄作が多いような気がします。

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リリー・フランキー『東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~』

今さら紹介するまでもない、超有名なベストセラー小説です。映画化もドラマ化もされて、原作小説を読んだことがなくても多くの人がこの作品に触れたことだと思います。そして、多くの人がこの作品を支持した気持ちがものすごく良く分かります。この小説は作者であるリリー・フランキーの実体験、すなわち彼と母との繋がりを元にしていますが、そこには事実を記述しているとき特有のべたべたした馴れ合いさが感じられず、きわめて節度のある文体でやや客観的すぎるくらいに静かな表現で語られています。押しつけがましいところもないし、読んでいて自然に感情移入することができます。
この小説は、先述のように「母とその死」がテーマになっていて、多くの読者が自分の母と小説内の母を重ね合わせ、現実に母を亡くしている人は思い出を喚起されて涙し、まだ存命の人もこれから訪れるかもしれない母との別れを思い浮かべて涙したことでしょう。それ意外この作品から感じることってないんじゃないかと思います。いや、これは悪い意味で言っているのではなくて、「母」というテーマは他に敷衍できる性質のものではないし、この作品もそのことを分かっていて、敢えて「母」というテーマを凝縮して扱っています。
そうやって母を正面から語ったからこそ、この作品にはパワーがあるし、多くの読者を獲得しているんだと思います。

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【よもやま話】自分で自分をほめる

この世の中にはいくつもの「名ゼリフ」というのが存在していて、時にそういった言葉の数々に心を救われることがあります。しかし、それらの言葉の意味は理解できてそれが心になにがしかの影響を与えることがあっても、その言葉を実感を伴って「本当にそうだよなぁ」と、その言葉を放った人と心情を同期させることができる体験は意外と稀なんじゃないかと思います。
たとえば、「ペンは剣よりも強し」という言葉。この言葉の意味は、暴力よりも言論の方が武器として有効であり、また、そうあるべきである、といったような意味だと思いますが、これを言葉の意味として理解することはできても、この言葉を発さずにはいられなかったその切実さをそのまま十分に感じることができる人はそうそういないはずです。

今日、ヨルダンの死海マラソンに出場してきました。死海というのは地表で最も標高の低い土地にあって(海抜マイナス400メートル!)、標高700メートルの首都アンマンからその死海までひたすら下りが続くという、マラソンには全く適していない過酷なコースを3時間半かけて走ってきました。練習不足がたたって残り4キロ地点で走ることができなくなり、歩いてしまったのですが、残り2キロのところで自分の身体と心に鞭を打って、ゆっくりながらも無理やり走ってゴールインしました。42キロも走ったのは初めてで、噂には聞いていたけれどまさかこんなに辛いものだと思っておらず、その辛さに耐え抜いて完走した自分に「よく頑張ったなぁ」と言いたくなりました。そして思い出したのが、アトランタ五輪女子マラソンで銅メダルを獲得した有森裕子のインタビューでのセリフ「初めて自分で自分をほめたいと思います」です。あのインタビューを見た当時だって物凄く感動しましたが、いまあのセリフを思い出してみると、心から「そうだよなぁ」と実感することができます。

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『オーシャンズ・イレブン』

煩悩の数が108であるというのは有名で小学生レベルの知識があれば誰しも知っていることであると思います。ですが、「なぜ108なのか?」という理由まで正確に把握している人は少ないのではないかと推察します。まぁそもそも諸説あるので「正確な理由」というのが存在しているかどうかも怪しいのですが、一番有力な説は「四苦八苦」を「4989」と表記し「4×9+8×9」と計算して「108」を導出している、というものです。
と、こんなことを書いて何を言いたいのかというと、「数字というのは、何かしら意味があるんだ」ということです。
さて、本題ですが、「オーシャンズ・イレブン」の「11」という数字は何を元にしているのでしょうか? もともとこの映画は1960年に公開された『オーシャンと十一人の仲間』のリメイクなのですから、その元になった作品にその起源を求めるべきなのですが、そこまでするのも面倒な話なので頭の中で想像してみます。この『オーシャンズ・イレブン』を観ていてすぐに浮かぶのが「11人も登場人物が必要かよ?」という疑問です。「11」という数字が先にあって、それに合わせて無理やり登場人物たちに役割を与えるべくアイディアを捻り出している印象です。
では、制作者側は「11」という数字にこだわったのか? この映画の醍醐味はチームプレーです。そしてチームプレーの最たるスポーツはサッカーです。言わずもがなサッカーのプレイヤー数は「11」ですよね。おそらく、「組織力」を画面上にうまく表現するためにサッカーの「11」という数字の力を借りてきたのでしょう。実際にそう考えて本作を観てみると、主人公のオーシャン(ジョージ・クルーニー)が司令塔(ミッドフィルダー)的存在であることを始めとして、サッカーのポジションの役割がそれぞれ反映しているようにも受け取ることができます。
まぁ、その後シリーズとして『オーシャンズ12』と『オーシャンズ13』が公開されて、本来の「11」という数字なんて忘れ去られてしまってますが、、、

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